制限の中だから、得られるもの

昨日は娘の高校のPTA役員会に出席してきました。

今季最初のPTA役員会。
例年なら3月には始まるのですが新型コロナウィルスの影響で
7月まで伸びていました。

そこで感じた事が二点。
二つとも「このコロナ過という制限の中で」に紐づく事でした。

一つ目は、体育大会の実施の是非について。
今年も例年通り9月に予定しているそうです。
しかし、練習も含めて三蜜を避けるために
内容は大幅に縮小。
団員全員で行う応援合戦は応援リーダーだけで行う。
騎馬戦などの密な競技は中止。
100メートル走やリレーなど密にならない競技を中心に
短い時間で終わる計画だそうです。
生徒会、体育祭実行委員会の生徒達と担当の教師で毎日のように話し合っているとの事。

PTA役員会では
騎馬戦がなくて残念だ、とか
そんな感じなら開催しなくてもいいのでは?
(特にコロナで1学期のスタートが遅くなり学習時間が削られた今年、
無理して体育大会をしなくてもその時間を学習に使えば?という意見も)

ここは、「体育大会は何のために開催するのか?」という根本を考えないといけないと思いました。

私の娘は今年で2年生。

昨年初めて体育大会に参加したとき、
応援団や団リーダーの3年生が主体性をもって
自分たちの団員を引っ張り夏休みを返上して応援の練習に励み
それこそ一生懸命に準備して仲間で力を合わせて体育大会に挑む。

負ければ泣くほど悔しがり、勝てば全身で喜ぶ。

真剣にやっているからこその感動があるなと
私も観ていてそう感じました。

高校生にもなると応援合戦や騎馬戦が本当に迫力ありますね。

娘も、団リーダーや応援団の三年生が「かっこいい」と言ってました。
私も三年になったら応援団やりたい!との事。

これは伝統でもあるのでしょうが、
先生からやらされた体育大会では絶対に実現しないでしょう。

自分から先輩みたいになりたい!という想いをもった生徒が
重ねてきた伝統ですね。
そして昨年を越えよう!という想いが重なり、毎年より良いものになって来たのでしょう。

リーダーも苦労や苦悩があるでしょうが、やり遂げた時には
人一倍成長しているでしょう。

チームワークの形成、苦労、悔しさ、努力、喜び、憧れ

娘の発言や私が観る限り、この高校の体育大会の意義は
「生徒達の人間的な成長のため」だと思います。

そう考えれば、
せっかく生徒会や実行委員会の生徒達が
「このコロナ過の中でなんとかして体育大会をやりたい!」
と想い、苦悩して、努力して、頑張っているのなら
多少縮小されようが、そこにはドラマがあり
やはり憧れがあり、悔しさもあるでしょう。

もしかするとハードルが高ければ高いほど、
成長も大きいかもしれません。

ここで途切れると、次に続く成長はなくなるでしょう。

なので、体育大会の開催は賛成です!

と、発言させて頂きました。

おかげさまでPTAの意見として「賛成」となりました。

 

 

ちょっと話は大きくなりますが、

「自由」ってみなさんどう考えます。

「自由」って全ての物や制限から解き放たれた状態の事を言うのでしょうが、
逆説的な話ですが「不自由」がないと「自由」は定義できません。

「自由になりたい!」と思うのは「不自由から逃れたい!」という事なので
「今、自分は不自由なんだ!」と思わないと、そこに「自由」は生まれません。

なので人によって「自由」は違いますよね。

牢獄に入っている人は牢獄から出る事が「自由」ですし
牢獄には入ってないけど嫌々会社で働いている人は日曜日が「自由」でしょう。

 

同じ様に「幸福」も考えられると思うのです。

シリアの内戦地で生活している子供達にとって
戦争のない国で生活する事が「幸せ」だと思いますし、
我が国で生活している子供達にとっては
「ニンテンドースイッチ」を買ってもらえる事が幸せかもしれません。

「不自由」「不幸」「制限がある」という事が
人間にとっては必要な事だと本気で思っています。

そこから「自由」「幸福」を掴むための努力が人を成長させるのでしょう。

コロナという「制限」は、コロナがなかった昨年よりも
より多くの成長や幸福が感じられるチャンスでしょう。

 

ピンチでもありチャンスでもある。

今はそんな時なのではないでしょうか?

 

さて、ここから二つ目の気づき、今週月曜日の私が講演したセミナーの話へとまとめたかったのですが
一個目であまりにも長くなりすぎたので、
もう一つの話と続きは来週に書きたいと思います。

といいつつ、来週は気が変わって違う事を書くかもしれませんけどね。

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